◆HP http://yonetani-yoneko.jimdo.com/
◇お仕事のご依頼などは、左記メールアドレスにてご連絡をお願い致します
子孫をつないだインターネット [★米谷春里先生]
観たいと思ってくださった皆様、
誠にありがとうございました!
今回、「儒学者・米谷春里」を縁に、
奇跡的に米谷家が大集合し、墓参り→宴会 を無事、執り行うことができました。
今でも、祭りの後の余韻に、ずーーっと浸っている感覚です。
TVでも紹介していただきました、
今回の経緯を改めて説明しますと-----------
福岡県うきは市に「春里米谷先生之碑」と刻まれた石碑があります。
見上げるほど大きいです。
今は亡き祖父が 「これは米谷家の先祖よ。」と、
嬉しそうに語っていたことを、鮮明に覚えています。
春里さんは、私から数えて5代前、つまり、私の曽祖父の祖父の「弟」です。
江戸時代末期に生まれた儒学者・米谷春里(1832~1890)は、
大分・日田に広瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」で学び、
のちに地元でも塾を開きました。
彼の死後21年、明治44年に、門人がこの石碑を建立しました。
米谷家のお墓にも入っている「春里さん」。
実は直系の子孫がどこにいるのか、ずっと探していました。
“存在する”のかどうかも、わからない状態で。。。
春里さんは、明治19年に一家で東京に移り住みました。
春里さんの長女や孫の方と、福岡の米谷家は、
昭和12年まで連絡が取れていたことは判っているのですが、
戦後の混乱でお互い連絡が取れなくなったらしい、のです。
どうにか、探したい。知りたい。
米谷と名の付く大学教授にお手紙を書いてみたりしましたが、成果なし。
それと同時に、「誰かがネットで検索したらヒットするように」と
このブログで、春里さんの情報を求めていることを書いてみました。
雲をつかむような調べ方ですが、何かやらねば、とその思いだけでした。
ブログで書いてから、4年経った昨年、
突然、女性からコメントが届きました。
「春里先生に関する情報をお伝えしたい」 と。
その女性が、なんと、直系の子孫の方だったのです。
(そのブログがコチラ
→ http://yonekofrom2005.blog.so-net.ne.jp/2010-08-15)
後日、メールで送られてきた古い写真には
「石碑建立時の記念写真」と「石碑の図面」があって、
どちらも、福岡の米谷家が持っていないものでした。
一瞬で確信しました。「これは本物だ!」
夜11時過ぎ、メールを読んだ私は叫びました!
「うわわわーーー!!!」
震える手で携帯を取って、実家の父に電話。
眠りかけていた父が「えーーーっ!!!」と大興奮。
「でかした!」と、今まででいちばん褒められました。
連絡をくれた女性は、「旧姓米谷さん」。
親戚から「米谷家は、大昔は大したものだったらしい。石碑が建っている」と
聞いていたそうです。(石碑が日本のどの地にあるのかは不明)
東京で暮らしていた、春里さんの一家と子孫たち。
昭和の戦前、春里さんの孫にあたる男性は (=女性の祖父)
墨田区に住んでいましたが、大空襲に遭い、この地を追われました。
それでも古い写真等が残っていたのは、
「戦火の中、このアルバムを大事に抱えて逃げたからでしょう」とのこと。
着るものや食べ物をたくさん抱えていたでしょうに、
何の腹の足しにもならないアルバムを大事に抱えて逃げた。
これは米谷家にとってとても大切なものだから、と。
このエピソードだけでも、胸が熱くなります。
それにしても、なぜ今、連絡が来たのか?
きっかけが驚きです。
女性曰く、「映画『永遠の0』を観て、私も調べてみようと思ったから」
「永遠の0」は、現代に生きる若者が、亡くなった祖父の足跡を調べる物語で、
映画に出演した俳優の三浦春馬さんも「自分も祖父のことを調べてみました」と
アカデミー賞授賞式でコメントされていました。
女性は、映画を観たのをきっかけに、
「米谷春里」を「ネット検索」してみた、というのです。
そして私につながるわけですね。
その後、去年の冬には、
私と両親が東京に会いに行き、
連絡を取るようになりました。
そして、今年のお盆!
その女性とお兄さんの2家族、合計9人が、埼玉県と福島県から、
初めての墓参りで福岡を訪れました!
迎えるこちら側は17人で、総勢26人の宴会となりました。
(建立当時の写真と同じようにと撮った一枚。104年ぶりの集合写真)
先祖の多くも喜んでくれているであろう、奇跡の出会い。
本当に来てくれた---と思うと
もう、地に足が着かないような、夢のような時間。
感動に浸ると、涙がどんどん溢れてしまいそうで、
私自身は子孫の方とじっくり話せず、
ひたすら、親戚同士をつなぐ役目に徹しました(笑)
今回の出会いで、強く思ったのは
「石」と「ネット」は凄い! ということ。
石碑建立に携わった人々、インターネットを発明した人、ブログを開発した人、
「永遠の0」を作った人、映画を上映した人たち・・・
そして、私を見つけてくれた純子さん。
すべての人々に、ありったけの感謝の気持ちを伝えたいです。
ああ、こんな日が来るなんて!
× 数万回
本当に、本当に、ありがとうございました!
(純子さんから以前もらった福島の美しいりんご)
W初めて !! [★米谷春里先生]
朝の生放送が終わってから、JR博多駅へ。
久留米駅でのりかえて、「筑後大石駅」には午前中に到着しました。
久留米と大分をむすぶ「久大本線」(きゅうだいほんせん)です。
なんとこの駅、週3回、豪華寝台列車「ななつ星」が通過するらしい!
きょう(金曜日)もあるじゃん!ってことで、
見たことない私は、ちょうどいい時間に墓参を終え、
眺めのいい場所で待ちました。すると・・・
重厚感あるダークブラウンの車体をゆっくり揺らしながら
優雅に走る「ななつ星」
田舎道でも、よく馴染む!
それから、もうひとつ。
初めて歩いたこの小川沿いで、きらきら青く光る鳥を見つけました。
近づくとちょっと先へ飛び、また近づくと飛んでいく。
あまりにも綺麗なので、ズームで急いで撮りました。
あ!図鑑で見たことある鳥!
右側のおしりの黄色い鳥も気になりますけど。
「翡翠(カワセミ)」 だって。
まさか偶然にも出会えるなんて!嬉しい!
さて、この近くにある 「米谷春里石碑」
今年3月には、うきは市教育委員会によって案内板が建てられました。
春里さん、そして先祖のみなさんがこの地で暮らしていたころも
カワセミは飛んでいて、私と同じように綺麗だと思っていたのだろうか。
と、先祖に、自然の景色に、思いを馳せながら、
帰路についたのでした。
漢詩文の世界へ [★米谷春里先生]
大分県日田市が開催する
『広瀬旭荘没後150年記念事業』がありました。
広瀬旭荘(きょくそう)は、儒学者・広瀬淡窓の末弟であり、
淡窓が開いた私塾「咸宜園(かんぎえん)」の第2代塾主だった人です。
これまで偉大な淡窓ばかりに注目が集まった感がありますが、
今回は、旭荘さんに特化しています。
午前中は、地元日田の高校生と、
東大大学院教授ロバート・キャンベルさんとの交流イベント。
詩吟部の学生は、淡窓と旭荘が詠んだ漢詩を朗々とうたい、
詩吟と同時に書道部の学生がその漢詩を書いていく書道吟もありました。
これまで能狂言、小唄などの邦楽系を稽古してきた私ですが、
漢詩、詩吟は未知の世界~
どうやって楽しめばいいか思案していたところ、
漢詩文が専門のキャンベルさん曰く、
「江戸時代の漢詩は、みんなでゆっくり鑑賞するものだった。
作るのも、完成するまでにいろんな人に見せた。
きょうのイベントは、それを再現しているかもしれない」とのこと。
なるほど、個人主義になった現代とは異なる制作方法と、
せかせかした現代とは全く違う鑑賞方法があったのね。
東大大学院教授のロバート・キャンベルさん、
直木賞作家の葉室麟さん、
佐賀大名誉教授、広瀬家研究者の井上敏幸さん、
そして私が司会!
咸宜園の門下生に私の先祖(米谷春里)がいたというご縁で、
今回司会の席に立たせていただきました。ありがたいことです。
午後は、キャンベルさんの講演と対談。
もう自分の不勉強さを痛感するのみで。
日本史、日本文学、漢詩文 etc... 知らないことが多すぎるっ!
勉強すべきことの膨大さをヒリヒリ感じた一日でした。
現在、日田市の咸宜園教育研究センターで特別展開催中~
『広瀬旭荘 -東遊 大坂・池田-』 ~9/30まで 入館無料
イベント前、キャンベルさんも熱心に見入っていらっしゃいました。
今はいろんなことが東京一極集中ですけれども、
江戸時代の日田に、その後の明治維新を引っ張っていく人材を輩出する
「咸宜園」があったことは、改めて、誇らしいことだなぁと思うのです。
東京でなくても、ココだから、できることがあるのかも知れません!
日田へ。② <咸宜園(かんぎえん)門下生 子孫の集い> [★米谷春里先生]
そして翌日
淡窓の命日にあたる11月1日、
「咸宜園跡」にて、「淡窓祭」が開かれました。
咸宜園は淡窓の塾があったところ
平成淡窓祭は今年で14回目、淡窓会は56年目を迎えるそうです。
みなさんによる、淡窓の詩の吟詠もあったりして、
日田にいまもつづく“淡窓先生”への思いを実感しました。
幼い頃から頭が良かった淡窓さん、いずれは日田を出て(福岡など)
学びたいと思っていたそうですが、体が弱かったため、
結局日田から出ることもままならず、悩み抜いた末、日田で開塾したのです。
でも、
その、本人にとっての“不運”が
日田での隆盛になるわけですから、
何が幸運につながるのかわからない!
なんとも不思議な気がします。
日田へ。① <咸宜園(かんぎえん)門下生 子孫の集い> [★米谷春里先生]
江戸時代後期から明治時代にかけて、多くの「できる男」らを輩出した
大分・日田の私塾「咸宜園」。
塾を開いた、儒学者・広瀬淡窓のもとに集まった門下生は、
実に約5000人にのぼるそうです。
10月31日(日)、大分県日田市豆田町で
その門下生の“子孫”の集いが開催されるとご案内いただき、
米谷家からは7人の大所帯で参加してきました~
受付で配らた名札です。
「の子孫です」って自己紹介するの、初めて
まずは 淡窓が初めて塾を開いた場所「長福寺」にて。
いただいた冊子の中に載っていた「月旦評」(成績の席次)に・・・
あった
「米谷辰二郎」(春里) このとき、まだ五級なり。(最終的には、最高級・九級へ)
このあと日田・豆田町の町並みを散策。
豆田の町並みは昔とあまり変わらないそうで、
淡窓さんも、春里さんも、仲間と語らいながら散策したのかも、と思うと、より楽しい。
夜の懇親会は、「秋子想(ときこそう)」のところにある「アプロディール紙音」にて
米谷家のメンバーもお互い情報交換できました。
親戚が冠婚葬祭以外で集まることって、最近無いからな~
かなり充実した、ありがたい時間でした。
実は、この「子孫の集い」、前回は10年前だったそうで、
今回私が参加できたのは、偶然のことなのです
というのも、
今年8月1日、日田で南こうせつさんのコンサートがあるからと出かけて、
せっかくだからと「廣瀬資料館」に見学に行ったら、
館長さんから「どうして来たの?」と尋ねられ、
「あの・・・先祖がここの門下生で。」と言ったら、「じゃあ、住所書いて!」となって、
「今年、子孫の集いをするという話があるから、その時は連絡します!」と。
それが今回に至る、ということなんです。
偶然?それとも必然?
これまで、いろんな米谷家の人々が廣瀬資料館に見学に行ったのに、
たまたま、今年、というキセキ!
さて、翌日は「淡窓祭」に参加です。 (→つづく)
(咸宜園跡にある紅葉。ほんのり秋色です)
お墓参りのキセキ。 [★米谷春里先生]
土曜朝、通常通りの生放送を終えたら、
一人で「お墓参り」に行こうと決めていました。
博多から電車で1時間ちょっと。
久留米で乗り換えて、九大本線の「筑後大石駅」へ。
電車で来るのも、一人で来るのも、初めて。
この辺りは、
絵に描いたようなのどかな場所で
果樹園地帯なだけあって、青いいちぢくや青い柿も眺めつつ。
前日に両親が来たらしく、お掃除ばっちりだったけど、
せっかくだから、残ったちっちゃな草や、しぶとい根っこや、
石に生えた苔を取っていたら、なんだか面白くなって・・・
気づいたら、滞在2時間半!
お墓参り恒例の写真撮影も一人じゃ撮りづらい
帰り道は、「米谷春里(しゅんり)の石碑」に立ち寄りました。
浮羽観光バス(うきは市三春1860-2) の向かい側にあります。
<春里米谷先生之碑>
春里さんは遠い親戚で、私の祖父の、ひいおじいちゃんの、弟さんです。
前述のお墓に入っているひとりです。
日田の広瀬淡窓のもとで学んだ後、地元に塾を開いた儒者で、
明治23年に亡くなり、明治44年にこの碑が建てられた、と碑に刻んであります。
石碑を建立したくなるほどの春里さんってどんな凄いだったんだろうと、
ちょっとづつ調べていますが、なかなか資料がありません。
何かご存知の方は、どんな些細なことでも構いませんのでぜひご一報を
お墓参り、一人できたのになんだか一人ぼっちな気がしないのは、
やっぱり墓参りだからでしょうか。
以前、墓石の下に、祖父母や会ったことない祖先の骨壷がずらっとならんでいるのを
見せてもらったことがあります。「うわっ」と思ったけど、それは怖いのでなく、
「思いを馳せる」存在である先祖が、突然、現実のものとして見えたから。
実家の仏壇で拝むよりも、お墓にきたほうが「会った」感があるのは、
単純だけど、本当にそこに「居てくれる」からでしょうか。
実は、お墓参りの奇跡がいろいろあって、
「お墓の掃除が終わった直後に雨が降る」
「掃除に行く前に雨が振って、草が抜きやすかった」(作業中には降らない!)
「お掃除中だけ曇りになった」
「お墓に置き忘れたカメラを取りに戻ったら、連絡取りたかった遠~い親戚に会えた」
「なんとなくお弁当作っていったら、いつも行く近所のうどん屋が閉店しいてた」 etc...
私なんか、今回、
「電車で爆睡してたけど、なんとなく降りたら、乗り換えの駅だった」
です。しかも、行きも帰りも!
あたし、守られてるな~と実感するのが、
私のお墓参りです。