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子孫をつないだインターネット [★米谷春里先生]
TVをご覧いただいた皆様、
観たいと思ってくださった皆様、
誠にありがとうございました!
今回、「儒学者・米谷春里」を縁に、
奇跡的に米谷家が大集合し、墓参り→宴会 を無事、執り行うことができました。
今でも、祭りの後の余韻に、ずーーっと浸っている感覚です。
TVでも紹介していただきました、
今回の経緯を改めて説明しますと-----------
福岡県うきは市に「春里米谷先生之碑」と刻まれた石碑があります。
見上げるほど大きいです。
今は亡き祖父が 「これは米谷家の先祖よ。」と、
嬉しそうに語っていたことを、鮮明に覚えています。
春里さんは、私から数えて5代前、つまり、私の曽祖父の祖父の「弟」です。
江戸時代末期に生まれた儒学者・米谷春里(1832~1890)は、
大分・日田に広瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」で学び、
のちに地元でも塾を開きました。
彼の死後21年、明治44年に、門人がこの石碑を建立しました。
米谷家のお墓にも入っている「春里さん」。
実は直系の子孫がどこにいるのか、ずっと探していました。
“存在する”のかどうかも、わからない状態で。。。
春里さんは、明治19年に一家で東京に移り住みました。
春里さんの長女や孫の方と、福岡の米谷家は、
昭和12年まで連絡が取れていたことは判っているのですが、
戦後の混乱でお互い連絡が取れなくなったらしい、のです。
どうにか、探したい。知りたい。
米谷と名の付く大学教授にお手紙を書いてみたりしましたが、成果なし。
それと同時に、「誰かがネットで検索したらヒットするように」と
このブログで、春里さんの情報を求めていることを書いてみました。
雲をつかむような調べ方ですが、何かやらねば、とその思いだけでした。
ブログで書いてから、4年経った昨年、
突然、女性からコメントが届きました。
「春里先生に関する情報をお伝えしたい」 と。
その女性が、なんと、直系の子孫の方だったのです。
(そのブログがコチラ
→ http://yonekofrom2005.blog.so-net.ne.jp/2010-08-15)
後日、メールで送られてきた古い写真には
「石碑建立時の記念写真」と「石碑の図面」があって、
どちらも、福岡の米谷家が持っていないものでした。
一瞬で確信しました。「これは本物だ!」
夜11時過ぎ、メールを読んだ私は叫びました!
「うわわわーーー!!!」
震える手で携帯を取って、実家の父に電話。
眠りかけていた父が「えーーーっ!!!」と大興奮。
「でかした!」と、今まででいちばん褒められました。
連絡をくれた女性は、「旧姓米谷さん」。
親戚から「米谷家は、大昔は大したものだったらしい。石碑が建っている」と
聞いていたそうです。(石碑が日本のどの地にあるのかは不明)
東京で暮らしていた、春里さんの一家と子孫たち。
昭和の戦前、春里さんの孫にあたる男性は (=女性の祖父)
墨田区に住んでいましたが、大空襲に遭い、この地を追われました。
それでも古い写真等が残っていたのは、
「戦火の中、このアルバムを大事に抱えて逃げたからでしょう」とのこと。
着るものや食べ物をたくさん抱えていたでしょうに、
何の腹の足しにもならないアルバムを大事に抱えて逃げた。
これは米谷家にとってとても大切なものだから、と。
このエピソードだけでも、胸が熱くなります。
それにしても、なぜ今、連絡が来たのか?
きっかけが驚きです。
女性曰く、「映画『永遠の0』を観て、私も調べてみようと思ったから」
「永遠の0」は、現代に生きる若者が、亡くなった祖父の足跡を調べる物語で、
映画に出演した俳優の三浦春馬さんも「自分も祖父のことを調べてみました」と
アカデミー賞授賞式でコメントされていました。
女性は、映画を観たのをきっかけに、
「米谷春里」を「ネット検索」してみた、というのです。
そして私につながるわけですね。
その後、去年の冬には、
私と両親が東京に会いに行き、
連絡を取るようになりました。
そして、今年のお盆!
その女性とお兄さんの2家族、合計9人が、埼玉県と福島県から、
初めての墓参りで福岡を訪れました!
迎えるこちら側は17人で、総勢26人の宴会となりました。
(建立当時の写真と同じようにと撮った一枚。104年ぶりの集合写真)
先祖の多くも喜んでくれているであろう、奇跡の出会い。
本当に来てくれた---と思うと
もう、地に足が着かないような、夢のような時間。
感動に浸ると、涙がどんどん溢れてしまいそうで、
私自身は子孫の方とじっくり話せず、
ひたすら、親戚同士をつなぐ役目に徹しました(笑)
今回の出会いで、強く思ったのは
「石」と「ネット」は凄い! ということ。
石碑建立に携わった人々、インターネットを発明した人、ブログを開発した人、
「永遠の0」を作った人、映画を上映した人たち・・・
そして、私を見つけてくれた純子さん。
すべての人々に、ありったけの感謝の気持ちを伝えたいです。
ああ、こんな日が来るなんて!
× 数万回
本当に、本当に、ありがとうございました!
(純子さんから以前もらった福島の美しいりんご)
観たいと思ってくださった皆様、
誠にありがとうございました!
今回、「儒学者・米谷春里」を縁に、
奇跡的に米谷家が大集合し、墓参り→宴会 を無事、執り行うことができました。
今でも、祭りの後の余韻に、ずーーっと浸っている感覚です。
TVでも紹介していただきました、
今回の経緯を改めて説明しますと-----------
福岡県うきは市に「春里米谷先生之碑」と刻まれた石碑があります。
見上げるほど大きいです。
今は亡き祖父が 「これは米谷家の先祖よ。」と、
嬉しそうに語っていたことを、鮮明に覚えています。
春里さんは、私から数えて5代前、つまり、私の曽祖父の祖父の「弟」です。
江戸時代末期に生まれた儒学者・米谷春里(1832~1890)は、
大分・日田に広瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」で学び、
のちに地元でも塾を開きました。
彼の死後21年、明治44年に、門人がこの石碑を建立しました。
米谷家のお墓にも入っている「春里さん」。
実は直系の子孫がどこにいるのか、ずっと探していました。
“存在する”のかどうかも、わからない状態で。。。
春里さんは、明治19年に一家で東京に移り住みました。
春里さんの長女や孫の方と、福岡の米谷家は、
昭和12年まで連絡が取れていたことは判っているのですが、
戦後の混乱でお互い連絡が取れなくなったらしい、のです。
どうにか、探したい。知りたい。
米谷と名の付く大学教授にお手紙を書いてみたりしましたが、成果なし。
それと同時に、「誰かがネットで検索したらヒットするように」と
このブログで、春里さんの情報を求めていることを書いてみました。
雲をつかむような調べ方ですが、何かやらねば、とその思いだけでした。
ブログで書いてから、4年経った昨年、
突然、女性からコメントが届きました。
「春里先生に関する情報をお伝えしたい」 と。
その女性が、なんと、直系の子孫の方だったのです。
(そのブログがコチラ
→ http://yonekofrom2005.blog.so-net.ne.jp/2010-08-15)
後日、メールで送られてきた古い写真には
「石碑建立時の記念写真」と「石碑の図面」があって、
どちらも、福岡の米谷家が持っていないものでした。
一瞬で確信しました。「これは本物だ!」
夜11時過ぎ、メールを読んだ私は叫びました!
「うわわわーーー!!!」
震える手で携帯を取って、実家の父に電話。
眠りかけていた父が「えーーーっ!!!」と大興奮。
「でかした!」と、今まででいちばん褒められました。
連絡をくれた女性は、「旧姓米谷さん」。
親戚から「米谷家は、大昔は大したものだったらしい。石碑が建っている」と
聞いていたそうです。(石碑が日本のどの地にあるのかは不明)
東京で暮らしていた、春里さんの一家と子孫たち。
昭和の戦前、春里さんの孫にあたる男性は (=女性の祖父)
墨田区に住んでいましたが、大空襲に遭い、この地を追われました。
それでも古い写真等が残っていたのは、
「戦火の中、このアルバムを大事に抱えて逃げたからでしょう」とのこと。
着るものや食べ物をたくさん抱えていたでしょうに、
何の腹の足しにもならないアルバムを大事に抱えて逃げた。
これは米谷家にとってとても大切なものだから、と。
このエピソードだけでも、胸が熱くなります。
それにしても、なぜ今、連絡が来たのか?
きっかけが驚きです。
女性曰く、「映画『永遠の0』を観て、私も調べてみようと思ったから」
「永遠の0」は、現代に生きる若者が、亡くなった祖父の足跡を調べる物語で、
映画に出演した俳優の三浦春馬さんも「自分も祖父のことを調べてみました」と
アカデミー賞授賞式でコメントされていました。
女性は、映画を観たのをきっかけに、
「米谷春里」を「ネット検索」してみた、というのです。
そして私につながるわけですね。
その後、去年の冬には、
私と両親が東京に会いに行き、
連絡を取るようになりました。
そして、今年のお盆!
その女性とお兄さんの2家族、合計9人が、埼玉県と福島県から、
初めての墓参りで福岡を訪れました!
迎えるこちら側は17人で、総勢26人の宴会となりました。
(建立当時の写真と同じようにと撮った一枚。104年ぶりの集合写真)
先祖の多くも喜んでくれているであろう、奇跡の出会い。
本当に来てくれた---と思うと
もう、地に足が着かないような、夢のような時間。
感動に浸ると、涙がどんどん溢れてしまいそうで、
私自身は子孫の方とじっくり話せず、
ひたすら、親戚同士をつなぐ役目に徹しました(笑)
今回の出会いで、強く思ったのは
「石」と「ネット」は凄い! ということ。
石碑建立に携わった人々、インターネットを発明した人、ブログを開発した人、
「永遠の0」を作った人、映画を上映した人たち・・・
そして、私を見つけてくれた純子さん。
すべての人々に、ありったけの感謝の気持ちを伝えたいです。
ああ、こんな日が来るなんて!
× 数万回
本当に、本当に、ありがとうございました!
(純子さんから以前もらった福島の美しいりんご)